情報満載!ジャスミンBlog
一番最後に虹の橋を渡ったガッシュが教えてくれたこと
昨年の11月8日、最期の自宅犬のトイプードルが亡くなり、私と自宅犬との時代が終わってしまった気がしました。なんとも言えない寂しさと天国に旅立ったあの子達全員に対する感謝の思いを残したくて、ブログに書くことにしました。19頭のうち4頭は残念ながら病死しました。私の実家に行った1頭と最後まで一緒に過ごした14頭はみんな老衰で亡くなりました。ドッグフードの質が昔に比べて良いのか、小型犬においては、15歳 16歳 17歳 18歳とみんなほとんど病気もなく長生きしてくれました。少し長いブログですが、皆さんに天国に旅立った大切な家族の紹介と私の今の思いをお伝えします。
実家を出て、7年経った頃に自分で初めてペットショップで犬を
購入しました。犬種はダックスフントの女の子で、名前をキキとつけました。丁度ジブリの「魔女の宅急便」が流行った頃です。
迎えた当初はかなりやんちゃで、非常に人懐っこく、チャカチャカで悪い事をして、叱られると逆切れして咬むような悪でした。折角子供のためにと飼った犬が咬みついたら、絶対に犬嫌いになってしまうので、咬まれて手から血が流れていても絶対に引くことはせず、咬んだまま私の手にぶら下がったキキと必死で戦いました。しつけと言っても動物のしつけなんて素人だったので自己流です。その時咬んだら、ただでは済まない事を教えました。後にも先にもあの時一度きりでしたが、本気で犬と向き合った出来事でした。私がブチ切れて抑え込まれたのが、相当怖かったのでしょうね。私も必死でしたから。その日から逆切れが全く無くなり、犬が変わった様にお利口さんに変身しました。底抜けに明るくて、ボールが大好きで「バック バック」と言うと10メートル以上も向こうに自らバックして、投げると尻尾を思いっきりフリフリしながら嬉しそうにキャッチし、何度も持ってきては、ずっと向こうに移動して投げるのを待っていました。本当に面白い子でした。娘とも姉妹の様で毎日笑いが絶えませんでした。こちらの言う事が良くわかる子でした。本当はお利口さんだったのでしょうね。この子は最後まで女番長でした。身体の小さいキキに逆らう子はいませんでしたね(笑)
あれから30年間、18頭の犬との出会いと別れを経験しながら、家族と暮らしてきました。同時期に沢山居たので、みんな順番に虹の橋を渡って行きました。犬だけで19回のお葬式、その度に別れの辛さに何度も泣きました。
購入しました。犬種はダックスフントの女の子で、名前をキキとつけました。丁度ジブリの「魔女の宅急便」が流行った頃です。
迎えた当初はかなりやんちゃで、非常に人懐っこく、チャカチャカで悪い事をして、叱られると逆切れして咬むような悪でした。折角子供のためにと飼った犬が咬みついたら、絶対に犬嫌いになってしまうので、咬まれて手から血が流れていても絶対に引くことはせず、咬んだまま私の手にぶら下がったキキと必死で戦いました。しつけと言っても動物のしつけなんて素人だったので自己流です。その時咬んだら、ただでは済まない事を教えました。後にも先にもあの時一度きりでしたが、本気で犬と向き合った出来事でした。私がブチ切れて抑え込まれたのが、相当怖かったのでしょうね。私も必死でしたから。その日から逆切れが全く無くなり、犬が変わった様にお利口さんに変身しました。底抜けに明るくて、ボールが大好きで「バック バック」と言うと10メートル以上も向こうに自らバックして、投げると尻尾を思いっきりフリフリしながら嬉しそうにキャッチし、何度も持ってきては、ずっと向こうに移動して投げるのを待っていました。本当に面白い子でした。娘とも姉妹の様で毎日笑いが絶えませんでした。こちらの言う事が良くわかる子でした。本当はお利口さんだったのでしょうね。この子は最後まで女番長でした。身体の小さいキキに逆らう子はいませんでしたね(笑)
あれから30年間、18頭の犬との出会いと別れを経験しながら、家族と暮らしてきました。同時期に沢山居たので、みんな順番に虹の橋を渡って行きました。犬だけで19回のお葬式、その度に別れの辛さに何度も泣きました。
犬以外にもハムスター、モルモット、うさぎ、ワラビー、ミニブタなど、いろんな動物が家にいましたので、小動物を合わせる、25回以上の別れ経験したと思います。なんで動物はこんなに寿命が短く、あっけなく逝ってしまうのかと本当につらかったです。犬種を並べると、ミニチュアダックスフント5頭 スタンードードル3頭 バーニーズマウンテンドック1頭 トイプードル6頭アメリカンコッカスパニエルが1頭、チワワ2頭、いろんな犬種と一緒に30年間の時を過ごしました。チワワ1頭は母が実家に連れて行き、亡くなるまで大事に育ててくれました。18頭もいると名前を付けるのも大変でした。
ダックス: キキ ララ ブン+チャチャ ウラン オハナ
キキは私がまだトリミングスクールに通っている時に癌でなくなりました。かなり弱っており、目を開くのもしんどそうでしたが、最後まで起き上がり、ペットシーツの上でトイレをしていました。亡くなる前はほとんど目も開けることができず、寝たままでした。ある日夕方に学校から帰って、いつものように「キキちゃん」と声をかけて抱き上げるとパッチリと目をあけて私を見ました。その後そのまま私の腕の中で逝ってしまいました。私の帰りを待っていてくれたのかもしれません。キキは私たちに幸せをいっぱい運んでくれた子でした。今でも思い出すと涙がでます。その後ララはブンチャチャと親子仲良く過ごし、小型犬の寿命を全うしました。
キキの3回目のお産んで生まれた2頭、ブンとチャチャです。二人でブンチャチャです。後ろに居る子の名前はブン、生まれた時から水頭症で、3か月にも満たない間に亡くなりました。いつもチャチャかまだハイハイできず匍匐前進する息子のお尻のところに足と顎を乗せて引きずられるように一緒に移動していました。チャチャと息子が大好きだったみたいです。その姿が本当に可愛くて仕方ありませんでした。短い命でしたが、ブンの居た時間を今でも思い出します。早過ぎる旅立ちでした。ブンが亡くなったあとチャチャはブチャッチャと言う名前になり、ララが亡くなった後、一人暮らしをすることになった娘がブンチャチャを連れて行き、大事にしていました。
後にたまたま実家に戻ってきた時に亡くなりました。
キキは私がまだトリミングスクールに通っている時に癌でなくなりました。かなり弱っており、目を開くのもしんどそうでしたが、最後まで起き上がり、ペットシーツの上でトイレをしていました。亡くなる前はほとんど目も開けることができず、寝たままでした。ある日夕方に学校から帰って、いつものように「キキちゃん」と声をかけて抱き上げるとパッチリと目をあけて私を見ました。その後そのまま私の腕の中で逝ってしまいました。私の帰りを待っていてくれたのかもしれません。キキは私たちに幸せをいっぱい運んでくれた子でした。今でも思い出すと涙がでます。その後ララはブンチャチャと親子仲良く過ごし、小型犬の寿命を全うしました。
キキの3回目のお産んで生まれた2頭、ブンとチャチャです。二人でブンチャチャです。後ろに居る子の名前はブン、生まれた時から水頭症で、3か月にも満たない間に亡くなりました。いつもチャチャかまだハイハイできず匍匐前進する息子のお尻のところに足と顎を乗せて引きずられるように一緒に移動していました。チャチャと息子が大好きだったみたいです。その姿が本当に可愛くて仕方ありませんでした。短い命でしたが、ブンの居た時間を今でも思い出します。早過ぎる旅立ちでした。ブンが亡くなったあとチャチャはブチャッチャと言う名前になり、ララが亡くなった後、一人暮らしをすることになった娘がブンチャチャを連れて行き、大事にしていました。
後にたまたま実家に戻ってきた時に亡くなりました。
上ウラン女の子、下オハナ女の子二人とも元々販売するために連れてきた子でしたが、ウランはあまりにも可愛くて売るのをやめたという事でウラン(売らん)と名付けました。アトムのウランちゃんではありません。オハナは家族に迎えたという事でハワイの家族、オハナになりました。とにかく元気な子で遊びたくてみんなに追突していくのでみんなが逃げまわっていました。パワフルなダックスでした。
スタンダードプードル: ジャスミン パンチ アクア
スタンダードプードル: ジャスミン パンチ アクア
ジャスミンの名前はジャスミンの花ではなく、アラジンのジャスミン王女の名前からとりました。ジャスミンの娘がどうしても欲しくて、親しいブリーダーさんの知合いのところで交配をお願いし、ジャスミンは2度のお産をしましたが、2回とも全員男の子で、1頭を自宅に残したのがパンチです。この頃からスタンダードプードルのブリードをすることとなりました。
自宅に残した子がパンチです。この子は遺伝の病気で3歳という短い一生を終えました。色はレッドで大きくて、非常に愛嬌のある優しい子でした。いつも2階のテラス手すりに前肢をかけて立ち上がり、下を覗いていました。自宅兼店舗の歩道から2階のテラスを見ると必ずこちらを見ては、大きな体をフリフリしながら嬉しそうにこちらを見ていました。大通りに面しているおり、丁度信号で停まるたびに、のぞいているパンチを見つけて、多くの方が車中から笑顔で手を振ってくれていたので、パンチはいつも本当に嬉しそうにしていました。穏やかで優しい子でした。
パンチが亡くなり、ジャスミンが生まれた大阪のブリーダーさんのところを尋ねました。そこに3頭のスタンダードプードルがいました。連れて帰るつもりはなかったのですが、大好きなスタンダードプードルを見たらもうだめです。連れて帰ることになりました。大阪から名古屋に帰る車中ずっと名前を考えていましたが、なかなk決まらず、ずっと「どうしよう どうしよう」と言っていました。サービスエリアに立寄り、トイレ休憩をした時に思いついた名前がアクアです。この子は本当に水を飲むのが下手くそでした。名前が悪かったのかもしれません。
バーニーズマウンテンドッグ: ベンジャミン
バーニーズマウンテンドッグのベンジャミンはペットショップで大きくなっていて、いつ行っても外のサークルにいるので、なんとなくペットショップに夜とこの子に会いに行くようになりました。主人と相談し、うちに連れて帰ることになりました。本当に愛嬌のある子で、私のハンドリングでドッグショーにも出ました。小ぶり性格はヘラらヘラでした。パンチと仲良しでした。
トイプードル: アベル レオ ダイナ クリリン ガッシュ 小太郎
トリミングスクールに入学後、ペットショップで少し大きくなっていたトイプードルの男の子アベルを迎えました。初めて飼ったトイプードルです。トリミングスクールに入ってハサミの練習をいっぱいさせてくれました。1年生の時の試験の時も一緒にがんばってくれました。トリミングスクール2年生に新級の際にうちに来たのが、白のトイプードルのレオとレッドのダイナでした二人とも男の子でお父さんが同じ異母兄弟でした。当時プードルが流行りだした頃で、学校で知り合った半期上の先輩がトイプードルの繁殖をしていました。そこで生まれてたのが、下の二人です
ダイナを先輩の家に見に行った時にレオがいたのですが、生まれつき上あごに穴があいており、一生懸命ミルクをあげて、何とか大きくなった子だという事で、この先が不安だとおっしゃっていました。当時まだ動物看護士の仕事もしており、主人も獣医なので、うちで引き取ってお世話をすることにしました。御飯がつまったりして、何度かひきつけを起こし、蘇生をしたこともありましたが、いつも戻って来てくれました。ダイナと共に毎日楽しそうにしていました。最後にひきつけを起こしたのは12歳でその時は蘇生しても戻ってきてくれませんでしたが、何とか2年くらい生きてくれるかなぁと思っていた子が12歳まで頑張ってくれました。真っ白で本当にかわいい子でした。
トリミングスクール3年目にショータイプの子という事で
迎えたのがクリリンでした。この子は本当に賢く、育てやすい子でした。ドッグショーに何度か出ましたが、自分一人で、きれいにポーズをする子でした。ドッグショーに出るのをやめてから、短くカットしましたが、それまでしていたラッピング(毛の保護をするために紙を巻いて保護する)もしなくて済むので、本当に嬉しそうでした。お店が忙しくなり、私があまりかまえなくなった時に嫌がらせなのか、ラッピングを全部自分で取ることを覚えてしまい、せっかく伸ばしていた毛をブチブチに切ってしまいました。トップをカットした後の嬉しそうな様子、忘れません。
「もう良いよ」と言いました。
クリリンとアベルの間に生まれた小太郎です。クリリンが育児放棄で子供におっぱいにを飲ませるためにくっつけると自分の子供にウ―ッと言って怒るので、チワワのラムネに育ててもらいました。アベルにそっくりでした。ガッシュは、クリリンと同様、ドッグショーに出ていました。虹の橋を最後に渡ったプードルの男の子です。甘えん坊で本当に綺麗な子でした。
アメリカンコッカスパニエル: ドルチェ(この子はブリーダーさんが名付け親でした)
トリミングスクール3年目A級に上がるときにドッグショーの実習のために迎えた子です。水が大好きで、本当に手入れが大変な子でした。何とも言えない可愛い顔で、学校でもみんなに可愛がってもらいました。ボール遊びが大好きで、なかなかやめることが出来ないくらいでした。
チワワ:ラムネ おチビ(母のところに行き、名前がチャッピーになりました。)
ラムネももともと販売する予定で入れた子でしたが、お産も経験し、しっかりと子供を育てました。プードルのクリリンが子育てを放棄した時も代わりにおっぱいを上げてくれました。母性の強い子で優しい子でした。おばあちゃんになっても本当にかわいいおばあちゃんで白内障で目は真っ白になっていましたが、足が丈夫で晩年もしっかりした足取りで亡くなる1年前まで走っていました。ウランと仲良しでした。
ラムネももともと販売する予定で入れた子でしたが、お産も経験し、しっかりと子供を育てました。プードルのクリリンが子育てを放棄した時も代わりにおっぱいを上げてくれました。母性の強い子で優しい子でした。おばあちゃんになっても本当にかわいいおばあちゃんで白内障で目は真っ白になっていましたが、足が丈夫で晩年もしっかりした足取りで亡くなる1年前まで走っていました。ウランと仲良しでした。
晩年のラムネとウラン
おちび(チャッピー)
母が連れて行ったおちび、名前がチャッピーとなり、先住犬のポメラニアンの初代ブッチャーと仲良く暮らし、最後まで大事にしてもらいました。お散歩中に鳥を見つけるとまるで狩りをするかのように鳥を追いかけるので、母は困っていました。
現在は猫が3頭、母が亡くなり、ポメラニアンの2代目ブッチャーを引き取りました。この子の名前は母が付けましたが、小さい時不細工だという理由からブッチャーとなりました。1代目のブッチャーも確かに口元が真っ黒でした。それにしてもひどい名前の付け方ですよね。
【一番最初にペットショップで購入したミニチュアダックスフントのキキちゃんと娘の入学祝のララちゃん(男の子)】
私の人生で犬がいなかった時期はほとんどなかったので、犬の存在は当たり前でしたが、キキちゃんは非常に大きな存在でした。
いつもいろんな場面で犬に助けてもらいました。娘が小学校に入る頃、ダックスが2頭になりました。初めて自分で購入したダックスのキキちゃんと1年後に勤務先の運転手さんが娘の入学祝に譲ってくださったダックスの男の子ララでした。当時一人っ子だった娘に兄弟が2人できた感じでした。当時税理士事務所に勤めていた私は定時に仕事を終え、学童保育に娘を迎えに行き、
家に帰って2頭の犬を連れて公園に行き、暗くなるまで遊びました。
ある日、キキが妊娠していることがわかり、後に3頭の子供が生まれ、家の中は一気ににぎやかになりました。全部うちで飼いたいと娘は言いましたが、既に2頭いるので全部知り合いのお宅にそれぞれ譲ることにしました。近くに住む人ばかりで、いつでも会える状況でしたが、半年後に会った時には、犬同士はお互い知らんぷりするんです。本当にあっさりしてると感じました。2頭のダックスと時々お風呂も一緒に入りました。当然犬のシャンプーはするのですが、その後、2頭を抱っこして湯船に一緒に入るもんですから、湯船が毛だらけで、あとの掃除が大変でしたが、娘も犬達もいつも楽しそうでした。
こんなことがありました。仕事から自宅に帰りせっせと作ったハンバーグ、先にお風呂に入り、夕食を食べようようと座ったのですが、置いてあったはずの手作りハンバーグがない!どこ行った????お皿の端には野菜サラダだけが寂しげに残っていました。隣の部屋のカーテンところでうつむき加減で絶対に目を合わさないダックス二人組がそこに。あまりにも可笑しくて、怒る気にもならず、娘と大笑いした事がありました。ダックスは本当にいたずら好きで驚かされることも多々ありましたが、明るくて一番犬らしかった気がします。
【トリマーになるきっかけをくれたジャスミンに感謝!】
娘が小学校に入る頃、税理士事務所に勤めていた私が、まさかトリマーになるとは全く思っていませんでした。いつも行く獣医さんのところでトリマー養成スクールのポスターをなんとなく見ていた程度で、その後転職はしたものの、動物のお仕事をするとは思っていませんでした。5年後にたまたま動物病院のお手伝いをする機会があり、初めて動物のお仕事について知ることに。大学を卒業し、一般企業のOL、塾講師、会計事務所の事務員、一般企の経理社員と動物とは全く縁のない仕事をしてきました。動物が大好きというだけで、まさかの動物看護師になり、トリマーの学校にまで通い、それが私の天職になるなんて、私の人生の設計図には全くありませんでした。動物看護士の職に就き、その後スタンダードプードルのジャスミンを飼ったことで、どんどん私の毎日が変わっていきました。当然トリマーではなく、動物看護士なのでカットなんて全くできるわけありません。動物病院内で働いているトリマーさんがやっているのを見様見真似でやってみましたが、なかなか難しい。うまくできませんでした。
ハサミと言えば、高校の先生に言われたことがあります。職員室でハサミでプリントを切っていると、「あんた、ハサミ下手やなぁ。」と地理の先生に笑われ、「なんでそんなこと言うの?」と言いながら、心の中で「確かに。」とつぶやいた事がありました。「紙はまっすぐ切れんかったけど、犬の毛はまっすぐ切れるよ!」って今なら言えます(笑)
1年間は素人なりに犬種本の写真を見ながら、自己流のジャスミントリミングがはじまりました。昔は今のようにスマホも犬のスタイル本もなく、知識を得るすべがあまりなかったので、素人の私は大変でしたが、ジャスミンは非常に大人しく、私のペースに合わせてくれる子で、嫌がることもなく、練習させてくれました。あの子が大人しくなかったら、ジャスミンがケガだらけか、あまりのガタガタカットで諦めて近くのペットサロンに出していたかもしれません。その後ジャスミンを綺麗にするだけのつもりで学校に行きましたが、1年生が終わる頃に勢いでペットサロン ジャスミンを開業しました。若い私はかなりのチャレンジャーでした。根拠のない自信と言うやつでしょうか、今考えると恐ろしいです。ジャスミンがいつもそばにいてくれれば、いけそうな気がしていました。2年目からは、学校の授業以外の日にお店を営業、3年目、4年目にはドッグショーも経験し、何とか順調にサロンを続けていくことができました。ジャスミンのために行った学校でしたが、結果的にペットサロンを開くきっかけとなりました。本当に狭いお店でしたが本当に楽しくて充実していました。今の店舗にジャスミンがいてくれたらどんなにいいだろうといつも思います。私にとってジャスミンはいつもかけがえのないパートナーでした。今は店の壁に掛かったジャスミンの大きなポスターに話かけてたりします。
【トリミング学校時代の犬達】
私が行った学校は、春と秋に生徒の募集があり、私は社会人の多い秋組でした。そこで知り合ったブリーダーさんに繁殖していた犬種について、いろんな事を教えてもらいました。そして当店で販売する犬を頻繁に出してもらいました。本当に犬を大事にしていたブリーダーさんだったので、みんなとても良い子ばかりでした。当然お客様にもよろこんでいただき、みんな最後まで大事にしてくださいました。販売目的だった子達のうち3頭が自宅犬となりました。ダックスのウランとチワワのラムネ、おちび(チャッピー)です。
【自宅犬のお役目】
トリミングスクールに入学後、同期のブリーダーさんと出会ったことで、トリミングの勉強と犬種の特徴を知るためにいろんな
種類の犬を迎えました。特徴を知るつもりが、個々に面白い行動や感情の表現があり、学ぶというよりもみんな個性的で本当に
楽しませてもらいました。自宅犬達は、スタッフの練習にも付き合ってくれました。お陰でスタッフのカットもどんどん上達していきましたし、あの子達を本当に可愛がってくれました。私は、自宅犬がいなければ、トリマーとしていつまでも一人前になれなかったと思います。心から感謝しています。
種類の犬を迎えました。特徴を知るつもりが、個々に面白い行動や感情の表現があり、学ぶというよりもみんな個性的で本当に
楽しませてもらいました。自宅犬達は、スタッフの練習にも付き合ってくれました。お陰でスタッフのカットもどんどん上達していきましたし、あの子達を本当に可愛がってくれました。私は、自宅犬がいなければ、トリマーとしていつまでも一人前になれなかったと思います。心から感謝しています。
みんなが7,8歳になったころには、練習犬としての役目も卒業し、自宅犬としてみんな毎日楽しそうにテラスを走り回ったり、女の子同士は特に仲良しでした。ひるがの高原のキャンプ場に大きなワンボックスカーを借りて、
女子だけ5頭を連れて行ったことがありました。大雨に合い、テントから外に出られず、雨が上がった一瞬を狙って外に出て、どろどろの地面を気にせず、みんなで歩いた事を思い出します。その当時はジャスミンをはじめ、開業当初いた子達はみんな他界しており、みんなが居た頃にみんなを連れて遊びに来ればよかったと後悔したものです。
キャンプ場の木造の暗いトイレは怖いですよね。みんな私の後を付いてきてくれました。全員が大人しく外で待っていてくれたので本当に心強かったです。今でも外にあるトイレは怖いですから。犬が犬を教育してくれていたようで、本当に忠実な子達でした。本当に懐かしい思い出です。みんな楽しく過ごして帰ったのですが、帰ってからの泥だらけの子のシャンプーは流石に大変でした。
【最後の自宅犬 プードルのガッシュが私に教えてくれたこと】
2019年に18歳でダックスのウラン、2020年に14歳でダックスのオハナ、そして18歳でチワワのラムネと次々に虹の橋を渡っていきました。最後に残ったガッシュは2021年11月8日に17歳で他界しました。同じ時期に飼いだすとみんな同じような時期に続いて逝ってしまうので、本当に辛いです。
最後に天国に行った17歳のガッシュは、足がだいぶ弱っていました。
晩年は動物用の車いすでリハビリし、また自分の足でふらふらしながらも自由に歩けるようになっていました。御飯もいっぱい食べていましたが、食べても身につくことがなく、日に日に痩せていきました。それでもいつも楽しそうで、細くなったお尻にSSサイズのオムツをいつも嫌がることなくよろよろしながら、7歳のブッチャーのフードを横取りしたり、自由に家の中を歩き回り、疲れていきなり眠りだいしたり、いつものんびりと過ごしていました。16歳になったころから、急に足が動きにくくなり、徐々に歩きづらくなってきていました。プードルでは珍しく白内障がほとんど
見られず、まわりが良く見えていたようで、首が下がっていても物にぶつかることもなく、上手に避けて歩くことができました。
他の子達は白内障でほとんど見えない状態でしたが、足は丈夫だったので、車いすのお世話になったのは、この子だけでした。本当に歩きたくて歩きたくて、車イスのリハビリも上手くいき、自分の肢で亡くなる寸前まで歩くことができていました。コロナ感染者がまだ少なかった頃、よその人や他の犬と接触しない柵のあるキャンプ場のコテージにお泊りに出掛けバーべュー、キャンプファイヤーと一緒に楽しみました。
気候も良く、お月様の綺麗な夜に芝生の上を嬉しそうに歩いていました。
ガッシュの晩年はいろんな場所にポメラニアンのブッチャーと一緒に行きました。フェリーに乗り、篠島にも出かけました。うちの子達で船に乗ったのはこの子達だけです。暖かい日差しを浴びながら、海岸を散歩しました。海を見るのも水際を歩くのも二人とも初めての経験でしたが、二人とも楽しそうでした。帰りのフェリーの時間まで十分なくらい時間があったので、島の公園でのんびりと本当に楽しい時間を過ごしました。公園の芝生が嬉しいのか、ゆっくりゆっくりと歩いては立ち止まりを繰り返しました。
これは亡くなる2週間ほど前の話です。別れは突然でした。出勤前の朝でした。私が抱きあげると急に力が抜けたようにガッシュの首がダランと落ちました。心臓と呼吸が一瞬にして止まってしまいました。獣医である主人と蘇生を試みましたが、戻ってきてはくれませんでした。もう身体が動きをのを全部やめてしまったかのようでした。こうしてガッシュは一生を終えました。歩くことが下手になり、亡くなるまでの2年間介護が必要でしたが、ガッシュ自身が自分で頑張ってくれたので、私たちの介護はは大変ではなく、楽しかった事ばかりでした。あの子の頑張る姿は、犬であっても尊敬に値するほど素晴らしかったです。
暖を取るための洋服も初めてのオムツも本当は嫌だったと思いますが、嫌がることもなく、
つけてくれました。耳は遠くなっていましたが、こちらの言うこともよくわかっていました。車イスも初めてのことで嫌だったと思いますが、戸惑いながらも頑張ってリハビリをしてくれました。本当に素直な子でした。よろよろ歩いているところを自宅猫がパンチをしてよろめいても淡々と知らん顔で自分の行きたい場所に歩いていくようなマイペースな子でした。ご飯を食べるのもおやつを食べるのも水を飲むのも一生懸命でした。たくさん食べて、いっぱい歩いて、疲れたらその場で寝て、また復活して歩き出す。老犬の当たり前の行動に見えるかもしれませんが、若いブッチャーに負けじと頑張っていました。もしガッシュが歩くことを諦めてい居たならば、恐らく寝たきりになっていたと思います。私たちに迷惑をかけない様にがんばってくれていたのかもしれません。首が下がったままでも尾を振りながら、家事をする私の後をずっとついて歩きました。老いるという事はこうなっていくんだよ、それでも僕はこうやって頑張っているよ。今も一生懸命に歩いている姿を毎日思い出します。ガッシュから、最後の最後まで一生懸命自分のために頑張ることを教えてもらった気がします。沢山歩いて、私達に恰好いい姿を残してくれました。彼の生命力は素晴らしかったです。最後の子ガッシュが教えてくれたのは、最期の最期の日まで命を輝かせ、一生懸命に生き続ける事でした。ガッシュは犬としてのプライドを守り、キラキラしながら虹の橋を渡っていきました。最近少しずつガッシュの写真がみられるようになりました。
ガッシュを含め、自宅犬19頭それぞれに敬意と感謝の気持ちを伝えたいと思いました。ずっと先になるけれど、私も一生懸命最後まで生きて、いつかそちらに行くからみんな揃って待ってってね。またみんなで一緒に暮らしたいね。
もしも誰も待っててくれなかったら、めっちゃショックです(笑)
うちの自宅犬はみんなホントのホントに最高でした!みんなのおかげで楽しい時間を過ごすことができました。残りの人生、みんながくれた愛情を胸にこの仕事で社会貢献して終わりたいと心から思いました。
長文を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
ペットとの時間を大切に思いっきり楽しんでくださいね。
右の写真は23年ほど前の写真です。若かりし頃のジャスミンと私。 時代を感じますね。
長文を最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
ペットとの時間を大切に思いっきり楽しんでくださいね。
右の写真は23年ほど前の写真です。若かりし頃のジャスミンと私。 時代を感じますね。